マニフェスト 西原しげき紹介 8つの約束 一言コラム かわら版 レポート メールマガジン
 

 

欧州花・環境視察団報告書
1997.4.20 〜 28
(花の王国静岡議員連盟・地球環境と資源を考える議員の会・青年議員連盟)

前書き
この報告書は、私たちが実際に見て、そして現地で聞き取った事実について報告するものであります。したがって、一般的な内容や真実とは多少異なっているところがあるかも知れませんが、そこまでの検証はこの報告書をご覧になった皆様がそれぞれご研究されますことを期待するものです。
更に一言付け加えるのであれば、とかく議員の研修視察は問題があると指摘されますが、今回のように民間の方といっしょになってまわることによって更に見識が深まりますし、いろいろな意見も伺えて参考になりました。そうした意味からも、それぞれが有意義な研修になったことを確信しています。

ベルギー編・リエージュフローリア視察
4月20日成田を出発した私たち視察団は、11時間30分のフライトの後、ロンドンヒースロー空港に到着した。しばらく待機した後、1時間のフライトで、ブリュッセルに到着したのは、現地時間で夕方の7時を回っていた。
空港に降り立つと、一瞬ブルッとくる。
寒さは予想してきたものの、日本の早春という感じで、かなり寒い。
空港には、懐かしい顔が出迎えに来ていてくれた。デュッセルドルフに駐在の池谷さんだ。
私たちは、あいさつもそこそこにバスに乗り込むと、今日の宿泊場所であり、今回の、第一視察の国際フローリアが開催されている、リエージュに向かった。
ベルギーは、面積で、四国の1、5倍、人口が1000万人。北部のオランダ語圏と今回我々が訪れる、南部のフランス語圏にわかれている。
整備された高速道路をバスはスピードを上げて走る。行く手に、お椀を伏せたような小山が見えてくる。かつて、リエージュは、石炭の町であった。1950年代から1970年代は、ベルギーの重化学工業の中心地として栄えた。それ以前から、このリエージュは、鉄鋼やガラス細工の町として栄えてきたまさに工業の町である。
しかし、現在では、石炭の採掘はされていない。採算が合わないからだ。
北部の、アントワープやゲントは、外国資本を入れて発展しているのに比べて活気がない現在のリエージュである。
ベルギー全体とすれば、過去の歴史の中からさまざまな国の統治を受け、交流の結節点と言うことか、EUの本部がおかれ、国際的な重要性が増している。
リエージュの町に入ると、日曜日と言うこともあるのだろうが、やはり寂しさを感じた。
ホテルは、ムース川沿いのホリデイイン。
各自チェックインを済ませると、長旅の疲れからそのまま部屋に向かった。
それぞれ、バスの中で渡された、お握りをぱくつきながら、たった今朝離れたばかりの日本を懐かしく思い出しながら、ベッドにもぐりこんだ。
翌朝は、素晴らしい天候であった。
ムース川周辺を散歩してみる。まさに、身を切るようなつめたさである。
こんな寒さの中で、花の展示がされているのだろうかと、心配になりながらも、今日から始まる視察に期待を膨らませた。
今回訪問する、国際フローリアは、屋内展示のみで、ベルリー国内で5年に1回開催される。
今回は、フランス語圏での開催なので、次回はオランダ語圏のゲントで開催される予定であると言う。
したがって、今回は「20世紀最後の花のコンペディション」と言われている。
ホテルを出て、10分くらいで私たちは、会場であるリエージュエキジビションホールに着いた。
しかし、ほとんどメンバーは本当にここがイベント会場か不審に思ったはずである。
確かに、会場には、数百人の人が開場を待っているし、ホール前には、庭園風の展示も見える。
しかし、花博覧会が2004に浜松で開催されるものと同じと考えていったメンバーにとっては
「空港にも、ポスターなかったし、町の中に入っても、普通だったらお祭りムードがあるのに何もなかったぞ。ようやく、この近くで、案内版を見た程度でおかし一じゃないか。会場の選定まちがったんじゃないの」
そんな声も一時はでるほどでした。池谷さんの説明で理解をしなおして我々は会場に進んだ。
入場料金は、450BF(約1800円)で、いくら人数が増えてもグループ割引はないそうで添乗の長谷川さんは不満そう。
私たちを迎えてくれたのは、リエージュインターナショナルフェア(リエージュ国際見本市)の幹部秘書であるミッシェル・メトレンさん。
彼女は、私たちのために会議室を用意して待っていてくれた。説明を受けようとすると、彼女はいきなり質問をしてくださいと言う。確かに、質問から答えるほうが、適切なのかもしれないが、それはこちらのレベルがある程度あってのこと。いきなり質問をどうぞと言われると、さてどこからしたらいいのか迷ってしまう。しかし、心配することはなかった。
以下Q&Aで活発な質問風景を再現する。
Q:花の種はどこで購入できるのか。
A:業者が、カタログを見て注文する。出展業者は、国内のみならず、アフリカなどからも出展している。
Q:今回のテーマと動員数を教えてほしい。
A:国のテーマは、「つつじ」です。インターナショナルのテーマは「エキゾチズム」。動員については、1日に10,000人を予定している。
Q:予算を教えてください。
A:27,000,000BF(108,000,000万円)です。これらは入場料収入で賄われます。入場料金は4月19日の開催初日は、500BFですが、だんだん下がっていき、最終日の26日には300BFになります。
Q:出展業者数を教えてください。
A:55グループで、約150業者になります。1業者が16uから20uの面積です。最大は、ゲント市の3140uになります。一切料金はいただきません。ただです。
Q:主催者はだれですか。
A:私たちの会社、リエージュ国際見本市株式会社です。まったくの民間会社です。(後で貰った資料によると、地方公共団体がほとんどの株を所有する、日本で言えば第三セクターである。)
Q:賞品などはあるのですか。それらは誰が用意しますか。共催・後援はありますか。
A:全体で14,865,000BF用意してあります。
協賛会社として、電気事業者、地方園芸振興協会、ワロン地方政府です。そのほか、後援としてリエージュ市、ベルギー国営放送、地方公共体テレビ、地元ラジオ、観光局などです。資金的な援助はほとんどありませんが、ラジオは中継など積極的にやってくれます
Q:開催の意義は何ですか。
A:ベルギー園芸の振興です。
Q:具体的には、種苗振興なのか、観光なのかどちらでしょうか。
A:そのとおり両方です。
Q:行政との関係はどうですか。
A:自分たちで全部やっています。
Q:PRはどうしているか。効果はどうか。
A:私たちは、花の専門家ではないので、技術的なことについては専門業者に依頼している。準備をはじめてから5年かかった。しかしこの5年は短くなかった。たっぷり時間を活用してようやく開催にこぎつけた。短くはない。
ポスターについても、ブリュッセル空港に展示したかったが、料金が高いのでやめた。リエージュ空港には張ってあるし、バスの車内にも張ってある。オランダ、フランステレビは毎日放送している。ラジオは毎日中継もしている。
効果についてだが、まだ2回目なので比較ができないので難しいが、出展者からは、「ほかの客とコンタクトが取れた」など効果があったと喜ばれている。リピーターがかなり出展していることからも判断できる。
さまざまな質問に、自信たっぷりに答えるメトレンさんに対してまだまだ聞きたいこともあったが、時間の関係もありお礼を述べて我々は館内の展示を見て回った。
この会社は、1949年設立され、ホールは1978年に建設された。
屋内建築面積が15,000u、今回の展示は屋外も含めて19,000uとなる。
この会社は、大きく二つの事業で成り立っている。
1つは、今回のようなイベントの企画開催、そしてもう一つは貸しホールである。イベントとしては、グリーンツーリズム展、消費財展、自然石展などがあるということである。今回のフローリア展が少し早いような気がすることを聞くと、ベルギーの園芸家協会が決定したとのことで、ほかの展覧会との関係とのことである。
色とりどりの、華やかなコートをまとった大勢のお年寄りが園内を楽しそうに進んでいく。
車椅子のお年よりもいる。ビバルディーの四季の春の楽章が、BGMで流れている。
長い冬の後で、一気に春がやってきて、人も動物も植物もみんな喜んでいる。
そんな雰囲気が、大きく広い会場に満ちているのを感じる。
どうしてだろうか。
花がきれいなのはもちろんだが、それだけではない。
まず、水がふんだんに使われていることが上げられる。
力強く吹き上げるエネルギーをもった水。時に強く、時に弱く、管の太さ、入れ物の大きさによって、音色の違う水。春の小川を思い起こさせる流れ、ジャングルの神秘さ、そして都市の憩いの中。
花と醸し出すこの雰囲気を、この会場にいる人が、時間と空間を越えて共有することに豊かさを感じるのではないだろうか。
メンバーからは、「日本のほうがディスプレーが繊細でいい。(逆に、このほうがいいという意見もある)」「日本は、花の種類が少ないが、ここは多い」といった意見が聞かれた。
短い時間であったが、この展示会を見て感じたことは、民間の力で開催しているということである。
そして、ホール運営のあり方についても参考になった。
さしずめ、ツインメッセや現在建設されているグランシップなどの運営と比べてみると民間が英知をしぼってやるほうがいいのかもしれないということを考えさせる事例である。
わたしたちは、午後は、レエージュ市のガラス工芸施設などを視察して日程を終えた。


 

ドイツ編・DSDデュアルシステムドイッチュランド)訪問
ベルギー・リエージュから今日はドイツケルンへそしてデュッセルドルフへ向かう。
今日の訪問先、デュアルシステム社はケルン市の郊外にある。
さまざまな、廃棄物に囲まれた廃棄物処理工場を想像していたが、私たちがやってきたのは、予想に反して、瀟洒な建物だ。
説明は、デュアルシステム・ドイチュランド社の公報部国際関係担当のヘルムート・シュミッツさんにお願いた。
最初のビデオは10分ほどあったが、百聞は一見にしかずで、どのメンバーもこの説明ですべてを理解したようだ
しかし、説明を受けていて、わたたちがいままで抱いていたDSD社のイメージと少し違ってた。
それは、ビデオの前半は非常にわかるのだが(容器包装リサイクルを始めるに至った経過など)後半の、プラスチックの処理方法の説明に力をかけている部分になると
「おいおい、ドイツは、ごみになるもの、処理が大変なものは作らないようにするというのが最終目標ではないですか。これでは、どんどんプラスチックのごみが来ても大丈夫ですとPRしている見たいですね」といいたくなった。
しかし考えて見るとDSDシステムはメーカーから処理費用をもらって、ごみの分別回収とリサイクルをやっている会社なのだから、採算があって、会社が健全に経営されていてはじめて成り立つのである。この会社にそれ以上は追及してもしょうがないと考えることにした。
事前に、ドイツ人に質問をすると彼らは議論好きだから、昼食がとれなくなるかもしれないと,池谷さんから忠告されていたので、なるべく、ヘルムートさんを刺激しないように彼の聞くことにした。
DSD社で扱うものにはすべて「グリューナー、プンクト」といって製品のどこかに、小さな、ちょうど日本でいうとグリーンマークやベルマークのようなものが印刷されている。
それについては、DSD社がすべて責任をもってリサイクルするようになっている。したがって、ドイツの現在の家庭ごみのリサイクルの実態を見ると、紙が65l、瓶が75l、布が80l金属が65lになっている。1990年に6,800dだったものが、わずか3年後の1993年には12,970 dと倍のリサイクル量になっている。街角に、回収ボックスがおかれている。
茶と、緑と、白はそれぞれ瓶の種類を表しているので、それぞれの色のボックスに入れる。
基本的には、街角に、瓶用(3種類)と紙用のボックスが置いてある。
グリューナー・プンクトがついている製品は各家の黄色のコンテナか黄色のプラスチック袋に入れる。
私たちは、その後の街角で改めて、確認することになる。
今まで混合プラスチックが分別処理が大変であったが、(分離コストがかかった。)シュレッダーにかけて、アグロメレートにして製鉄所の高炉で添加材として使えるようになったので、「プラスチックは無限に利用できる」ようになったことを強調している。
現在は、課題としてコスト削減の一環として最後の手選別の部分をオートマティックにしていく計画とのことである。
現在では、プラスチック混合容器のうちで10c以下の汚れている混合容器が問題。エコロジーと経済性の面から検討して、これらは資源として製鉄所で使うのがいいという結論に達している。
DSDでは国内で5社の製鉄所で使っている。日本のNKKもこの方式を検討している。
DSD社では、5月20日から23日までの間、東京ごみメッセへ出展する。
日本の企業との技術提携を行う予定である。
グリーンポイントのお金は誰が支払うのか。
これは、循環経済法の中で重さ、形で決められてくるが、最終的には消費者の負担となる。たくさん包装材を出すメーカーは、たくさんごみ処理代としてDSD社に負担金を支払う。逆に、簡易包装をすれば少なくてすむ。従来は、日本のようにごみ処理は自治体がやっていたので、そうでなくなった。
たとえば、ミルクを買った人は、ミルクと、瓶と、その処理代としてミルク代を払う。
その処理代が、DSD社に回るので、処理ができる。
処理代は、消費する人だけが支払うことになるので、税金の不透明な投資はしなくても済む。至ってわかりやすいシステムである。
DSD社は、ごみ回収のオーガナイザーで、実際の回収や、処理は、民間や自治体に委託しているとのことである。
一時発足当初、効果的なコントロールシステムができていなかったので、経済的な危機に直面した。所謂「ただ乗り」で、支出に見合う収入が得られなかったことだが、それは製造業者からお金をしっかりもらうことで解決した。
そして、1994年10月から処理料金を上げた。
しかし、すべてが、最終的には消費者に転嫁されるので、値上げは厳しく規制されている。今回の値上げの条件として、1999年までは値上げはできないことを約させられている。回収率は今後さらに増えていくので、いかにコストを下げていくかが大きな課題である。
ちなみにデポジットも盛んに推進している。
ビールで15ペニヒ(10円程度)、水が30ペニヒ、ペットボトルは70ペニヒ(50円程度)である。
使い捨てのほうが、経済面からのみ言えば、安くなる。
ドイツ人は、分別収集をして、分離して処理ができる能力を国民の多くがもっている。
DSD社は定期的に市民にアンケートをとっている。
なんと、ドイツ国民の89lが「わたしは、路上までごみをもっていく、家庭ごみを分けている」と回答している。
ヘルムート氏は5月のメッセに来日するという。
各人に、環境に配慮した、リサイクル消しゴムと、鉛筆、そして膨大な量の紙の資料を一人づつにプレゼントしてくれた。
鉛筆と、消しゴムは利用される可能性はあるが、果たして、紙のファイルが再び日本でみられるかどうか定かではない。
私たちは、彼との議論をさらに深めたいという気もあったが、其のことによって、大切な昼食の時間にケルンのビールを飲み損ねて後悔しないほうを選択することにした。
外は、少し雨雲をともなった、風が吹きブレザーだけでは寒い。
私たちは、ケルンビールとソーセージ・赤キャベツのワイン煮でお腹を満たし、ケルンの大聖堂を見学した。
町の中心に、教会を配置し、数百年かけて建造したこの大聖堂が、戦争で壊滅的に壊されても、復元改修してしまうドイツの人たちの勤勉で努力する姿を見ていると、先ほどの、メルムートさんが説明したDSDシステムは、これからのヨーロッパの基準になることを確信した。


BUGA(連邦園芸博覧会)ギルゼンキルヘンへ
視察3日目。時差にも慣れてきたメンバーは全員やる気一杯だ。
今日は、今回の欧州視察のメイン、BUGAの視察。
男性は全員ネクタイを締め、デュッセルドルフの宿舎を出発。大変熱心に池谷さんが調査してくれてあるので、バスの中で事前レクチャーを受ける。(実は、私たちはこれを含めて何回か同じことを聞くわけだが、そのことによってより理解を深める結果とった)
園芸博覧会の歴史について触れておくと以下のようになる。
19世紀以前は個人の植物の収集がきっかけであった。その同好の人が見せ会うことが始まりである。
1822年:プロシアが園芸家協会を設立する。
1869年:国際園芸博覧会をはじめて開催した。ベルギーやフランスをはじめとして420の
業者が参加した。
1897年:第2回ハンブルクで5カ月開催された。
1937年:帝国園芸博覧会がエッセンで開催された。
1947年:連邦園芸博覧会開催のアイデアが出される。
1949年:中央造園協会設立
1951年:第1回BUGAはノーバー市で開催された。187日間で、広さは21f。160万人を集
めた。跡地は公園になっている。
1987年:デュッセルドルフでも開催された。70fで入場者は730万人。現在後地は公園に
なっている。
BUGAはB2に該当する。IGA(国際園芸博)は10年に1回開催されている。
今後は、旧東ドイツ重点でやっていく計画。園芸博覧会の準備には10年かかる。
開催の運営、経費について。
連邦政府はお金を出さない。州政府と、地元の市が少し出す。主な収入は、入場料と店を出す人のテナント料。
運営にあたっては、まず有限会社を設立する。この会社が、施設の設計コンペを実施したり、施設の運営計画を立てる。今回の場合は、運営費は、地元ギルゼンキルヘン市と入場料収入、テナント料によって賄われるという。
ただし土地は州と市がもっていると地を借りてやる。この土地の一部も、もとは石炭を掘っていたり、コークスを作っていた。
この会場の土地のうち中央の部分が特にコークス製造場として利用されていたので汚染がひどかった。これをコークス製造会社が1マルクで市に譲った。
入場料は、16マルク。(グループは14マルク=1,050円)
昔、社会科の授業で習ったルール工業地帯のど真ん中として石炭や製鉄で栄えた地域が公害を乗り越えて、再び新しい町作りをしていこうとするその大きなきっかけを作るというこの園芸博覧会は大変地元の期待を担っているという。
汚い川として有名なエムシャール川をきれいにするという、エムシャーパーク構想の一環としてこのBUGAのプロジェクトも位置づけられている。
今回の博覧会では、4月19日から10月5日まで開催される。予想入場者数は、1,100,000人とされる。
バスは会場に近づく。
リエージュの時とは違って、会場に近づくとお祭りの雰囲気がでてくる。
今回のために新設した赤いすてきなアーチの橋がバスの車窓から見えてくる。
私たちを向かえてくれた担当者は、ほぼ池谷さんが、バスでここへ向かう途中に説明してくれたことを改めて繰り返してくれた。
鉱山の掘り出しをやっていた当時の、大きな作業場、シャワー室、ヘルメットや資材を置く部屋、蒸気の冷却タワー、石炭の混合場、すべてがまるで映画のセットのように昔のままの姿で保存されている。
それが、そのままテーマパークとして利用されている。ここは、鉱山会社の跡地であったが、1990年から開発をはじめた。ルール工業地帯にある会社が中心となり開発をすすめた。
園芸建築家の中で設計コンペが行われ、その会社・グループが建設を担当してきた。
ここでは、エムシャー川と運河が重要な意味をもっている。
目的は、ルール工業地帯の都市開発の一環である。120,000uのオフィスと180,000uの公園を建設する。市民の憩いの広場として自然公園として活用されていく。
BUGAがなければ、工場跡地として、有害物質が埋まり、浄化もされずそのままになっていたが、素晴らしいところに生まれ変わる。
暗いイメージが、新しく明るいイメージになっていく。雇用についても、跡地に一部化粧品会社ができ、約600人確保される予定である。
しかし、石炭掘削の工場については保存していかなければならないので、企業やどうするかが決まっていない。それが問題である。
以上のことは全員車中で大体池谷さんから聞いていたので、気持ちは会場の中に向かっている。
会場の中をなるべく多く見ようと早足で回った。
会場は、北会場と、エムシャー川と運河に挟まれた島の会場、そして市民の憩いの自然公園がある南開場に分かれている。
私たちは、まず会場を一周するモノレールにのって全体を見渡したあとで、それぞれ分かれめいめいの興味ある施設を回ることにした。
自然復元園と墓石のディスプレー、そして子どもの公園がある南会場。
お墓をあそこまできれいに花畑で飾るのを見たことがないのでびっくりしたが、とても繊細なトピアリー(日本風にいえば盆栽庭園か)であり、墓でなくても応用できると思えた。
ここで、おもしろかったのは、子どもたちの遊びである。井戸から水を組む、水を樋に流す、池で水で遊ぶ、どこの国でも同じだが参考にすべきだ。
エムシャー川をはさんで、石炭の混合施設も数十年前の工場の、機械を無造作に撤去した荒れ果てた姿をそのままオブジェにして使ってしまっているのには文化の違いを感じた。もっとも地震がないのでそのまま昔のものが使えるのだろうが。
その他クラインガルテンの出展や、住宅なども緑とマッチして会場の雰囲気を守り立てていた。
メイン会場の、屋内展示場は一昨日のリエージュのフローリア展と同じようなものだが、大差ないように感じた。
会場の中には、春風に誘われて、柳や白樺の花粉が、ちょうどタンポポの花粉のように飛んでいた。通訳の、奥谷さんの話によると、もう少しするとポプラの花粉が雪のように舞い散るという。
そんな、開場を私たちは後にした。
その後、我々はオーバーハウゼンのショッピングセンターを視察した。
やはりここも、製鉄所の跡地再開発である。池谷さんが、勉強熱心な私たちのためにと組んでくれたコースであるが、あまりの大きさに、参考になるのやらため息やらで、結局安いお土産をいくつか買ってこのお化けショッピングセンターを後にした。今日も、ドイツビールをたくさん飲みました。しかし、みんな体調はばっちりです。


 

イギリス編・園芸療法デモンストレーション庭園視察
私たちは、ドイツを後にして、霧の町ロンドンに向かった。ドイツデュッセルドルフからイギリスロンドンまでは空路約1時間20分。
幸いなことに、天気は花曇り、心配される園芸療法施設視察の天候は問題なさそうである。
最初に私たちが訪れた、園芸療法デモンストレーションガーデンは、テームズ川を渡った、右岸にあるバタシー・パークの一角にあった。バスをすすめていくまで、私たちは、この施設が、バタシー・パークの中にあり大変大きな施設であると思っていた。
しかしバスが止まって、公園の小さな一角にある家庭菜園のような施設を見たときに、
「えっ、ここが施設なの」と疑ってしまった。
しかし、看板には確かに「HORTICULTURAL THERAPY DEMONSTRATION GARDEN」となっている。
家庭菜園の回りに、小さな温室と、木のコテージ、それにコンテナハウスがあるだけである。
元気なキャロルンオズボーンさんが、まず紅茶のサービスをしてくれる。
空は曇り、風もかなり強くなってきた。
ここで立ったまま説明を聞くのだろうが、いったいこんななんの変哲もないところでどんなことが聞けるのか疑問を覚えながらも、オズボーンさんが入れてくれたおいしい、ミルクティを飲んだ。
まず説明が始まる。
キャロンオズボーンさんは、ロンドン地区園芸療法協会の地区マネージャーである。
そしてこの団体は、まったくの民間慈善団体である。
この団体は、19年前に始まった。
イギリス園芸療法協会は、1978年、あらゆる年齢の人々や、障害をもったさまざまな人々の利益のため、ガーデニング振興とガーデニングを利用したいと望む人に、専門的援助を提供する目的でヨーロッパ唯一の組織として設立された。
協会は、最初は、庭作りの情報の提供から始めたが、情報は、庭を作ってみないとできないので実践ガーデンセンターを作ってやるようになった。
イギリス園芸療法協会が運営するデモンストレーションガーデンは、ロンドン市内に3カ所ある。
この施設は、1985年に別団体から協会が管理運営を引き継ぎ、5年前にきれいに改造した。
なぜ改造したか、設計し直したかと言うといくつかの間違っているところがあったからだという。
コンクリートでは、雨の日に路面が光る。道が光るということは、お年寄りに問題があった。目が悪い人、弱視者の人も庭いじりができるようにしたかったので、アスファルトや石の違いがわかるように、歩くところに変化をもたせた。
足の触り心地で、わかるように配慮した。
このガーデンセンターは、どんな人でも使えるよう工夫した。しかし、すべて100lは無理なので妥協した点もある。
まず、車椅子の人でも触れる庭。
これもあえて失敗した設計をしている。
つまり、笠木部分が広くて、中の植物に手が届かない。
そして、最初は、高さも高かったので、ブロック2段ほど下げて、座れるようにしてしまった。
役所から、ほんのわづかな補助金を貰ったので、それにしたがってやったが問題があった。
しかし利点もある。真ん中に、とげのあるような植物を置けば、見れるけれど、触ることができないので安全である。
立ったまま作業ができる、プランターの棚の施設について。
プランタコンテナが小さくできているので、自分の責任の範囲が、小さく決められ無理のない仕事量と満足が得られるようにしてある。
精神障害者がまずここに来ようと思うこと=動機付けが大切であり、そのためには無理のない目標を定める必要がある。
小さな温室ハウスについて。
てんかん患者がバランスなどをくづしても安全なように、ガラスは使わない。
狭い中で、数人の患者が作業をやっている。カメラを向けると、にこやかにポーズをとってくれた。
ベンチについて。
ベンチに、肘掛けがついている。
これがあると、楽に座ったり立ったりできる。
説明を聞かなければ見落とすところである。
そして、ベンチの横には、車椅子がちょうど一台入れるスペースがある。車椅子の人も同じ感覚で、仲間と話ができるように配慮されている。
植物について。
どんな目的で、何がいったい植えられているのだろうか。
だれがとってもOKよ。
ハーブなどそのほかの野菜も含めて料理に使ってもOKよ。
歩いていると、顔にあたるように垂れ下がっている枝、これも位置を知らせてくれる。
匂いがきついものも、位置を知らせてくる。イギリスは冬が長いので、ポプリ製作用のドライフラワーの材料になる花作りも必要である。
彼女は、もっと野菜畑が必要といいながら、小気味よく説明していく。。
畑について。
区画が1b×1bになっている。車椅子の幅1,5bとってある。
何をしてどんな効果があるのか。
ここに来る人のほとんどは読み書きそろばんができない。
種を蒔いたら、いくつ芽が出たか。植えるとき何をしたか。
だれが植えたか。反復の繰り返しが、学習になる。
結果として、何かが育つのだからすてきで、勉強になる。
作物ができたら、食べたくなるので、簡単なスープなどはできるようにした。
作業のための、木工や、きれいなものを描きたければ、絵もやる。
色もきれいだが、見も食べられる。多目的に使えるよう植物を作っている。
1日に6人から10人の人がグループで学習する。
杖の人は、砂利道のほうがいい。車椅子の人は、コンクリートのほうがいい。
したがって、道はいろいろな工夫がしてある。
ここに来る人は、ソーシャルワーカーから送られてくる。
まづ、その人に、これから5年先10年先の目標を聞いてから療法を始める。
人によって、目的、ニーズが違うので、同じ作業はない。
卒中の人は、病院でくるみやボールを握るが、それはつまらない。土をくづし、芽がでてくる・・・喜びである。作ることによって、その人の回復の評価ができる。
座りきりの人が、立って作物をとれば、回復してきたことだし、どれだけ長く作業ができるようになったか、大きなことができるようになったか、すべてで評価できる。
また、田舎ではなくて、このバタシーパーク、一般の人が一杯やってくるここでやることに意義がある。ここに来なければ、孤立してしまう人が、ごく普通の一般の人との共通要素がでてくる。
さて、これから熱心な質問がでる。
Q:団体の内容について。
A:純粋な民間団体である。ただし、ごく一部(彼女は特に強調した)中央政府と、地方自治体から資金が入っている。1990年コミュニティーアクト法によって福祉事務所から一人いくらということで費用が入るようになった。
本部には、金を集める組織がある。土地はただで借りている。コンポスト会社からは、肥料を貰ってくる。
Q:園芸療法の資格について。
A:4年前まで、公的な資格はなかった。
そこで、コメントリー大学と共同で園芸療法士の資格を作ろうとした。
庭いじりの経験があるか、学習障害治療をしたことがある人に、週1回、1年間勉強してやろうとした。現在も公的資格ではない。
イギリスでも、この園芸療法士をどうするか現在検討している。そもそも、士の資格は、プロフェッショナルに出すものである。人を殺すこともないし、(殺すのは大根ぐらいで)害はないのだから、あえて資格が必要かという意見もある。
Q:ボランティア団体は何人ぐらいか。
A:30人から40人くらい。ここで技術を磨く人もある(覚えるとすぐよそえ行ってしまう)。
庭をいじりたい人も来る。庭をも人も、かまいたい人も来る。
Q:望んでくるのか。
A:26年でたった1人だけ、庭は嫌だと言う人がいただけだ。
ここに来る人は、本人が選んでくる。庭が好きな人が来る。
週1回で、4回ほど来たところで、家庭、ソーシャルワーカー、彼女と本人を入れて、話を前にすすめるかについて話をする。
これは、治療する人にとっても、こちら側にとっても必要な作業である。
5年の間に、2人こちらで断った例がある。
Q:道具は使わせているのか。
A:渡しています。
Q:カリキュラムについて。
A:全体的なカリキュラムはない。その人にあったプログラムを作る。
半官半民のトレーニング委員会が作ったものがあるが、それは硬くてよくない。
Q:どのくらいの期間ここに来るのを希望しているのか。
A:半永久的に来てもいいのだが、ウエイティングリストが多い。
期間が来たらやめて貰ったほうがいいのだが、それは、諮問委員会にかける。諮問委員には、利用者の代表もいるのでNO言われる場合が多い。
Q:どのくらいの人がここに来るのか。
A:週3回で30人くらい。彼女はここだけではなくて、デイケアセンタなどへ園芸療法の指導に行くことがあるので、毎日ここにいない。
熱心に、そして明るく答えてくれる彼女に、日本の授産所などのがんばり職員に似たものを感じた。
入るときは、なんだこのぼさぼさの庭はと思ったものが、出るときには素晴らしい庭に見えてきた。

LEE HOUSE
ロンドン二日目。
私たちは、小雨の降る中、園芸療法の視察第2段として、リーハウスを訪問した。
マーガレット・リプストンさんが対応してくれた。
ここでは、2年前から園芸療法を取り入れた。
地域の、精神障害をもった人を対象に始めた。特に町中なので、孤立している人、季節感がない人が多いので、そのような人にとっては人とのつながりや季節感がもてる。
ここで、種を巻き、芽がでて、苗を植えて、種苗会社に売っていく。
利用者は、始めての人でもできることから始める。
水をやる、枯れた葉をとる、鉢を動かすことから始め、だんだんと種を蒔いたり、ポットに分けたりと難しい作業にしていく。
有機栽培で、薬剤散布はしない。今年から、バイオ処理をするようにした。
ここ以外にもとし公園で畑をやっている。ここで、できた野菜は売るか、自分で食べるかどちらか。
質問に移る。
Q:ここの団体の性格は
A:地方自治体の福祉事務所がやっているデイサービスセンターの一環です。
したがって、マーガレットさんなどは、地方公務員です。
Q:個人個人のカウンセラーはだれがやるのか。
A:パートタイムで来る人がカウンセリングを行う。
Q:都市農園の広さはどのくらいか。
A:3エーカー(1、2f)でそのうちの0,5エーカを借りている。
都市農園は、チャリティーでやられている。
Q:カウンセラーの基準はあるのか。
A:条件はわからない。知識について、精神障害のカウンセラーだから庭いじりの知識は関係ない。
Q:収穫の喜びや、食べることの喜びがないのでは。
A:種から、芽になること、庭いじりの知識を覚えていくことに喜び、答えが出ることに喜びがある。
Q:2年前に園芸療法を取り入れた理由はなにか。
A:バタシーパークの成果にインスピレーションを感じた。その頃、イギリスのあちことに園芸療法が台頭してきた。それに、利用者を巻き込んで庭をきれいにすれば、一石二鳥だった。
Q:何年ぐらいで社会復帰していくのか。
A:まだ、園芸療法を始めて2年しかたっていないので結論はでていない。
ここで技術を覚えて専門職になれるようにしていきたい。市の公園局のPARKS部門で雇ってくれますといってくれている。園芸専門学校へここから行った人もある。
Q:対象者はどんな人か。老人はいるか。
A:25人から30人。週1回から最高2,5回。20代から60代の人だが、老人アルツハイマーはいない。
重度ノイローゼや精神障害者が多い。
Q:他のチャリティー団体との交流は。
A:ここは、ハックニー自治体だが、3カ所このような団体がある。6週間に1回ミーティングをして情報交換をしている。
ここは、立地条件でバタシーと違うので、カウンセリングサービスの一環として今後も工夫していきたい。できたら、庭の真ん中に畑を作っていきたい。
日本からきている、カウンセラーの渡辺さんは、園芸療法について
「カウンセリングできる部屋、スタッフは決められてしまうが、園芸療法では違った角度で大勢の人を取り込んでいけるのでいいのではないか。わたしも、この庭のベンチに腰掛けるとリラックスできるのでいいと思う。」
と答えてくれた。
私たちはここでもおいしいミルクティとビスケットをいただいて、小さな温室と作業小屋を見学した。

ウィズリーWISLEY(英国王立園芸協会)視察
私たちは、ウエンブレー競技場視察メンバーと別れてウイズリー植物園に向かった。
ここの案内は、清水出身の高村君である。
彼は、大学(日大農獣医科)を昨年卒業し、9月からここで1年間の予定で勉強をしている。日本からは現在2人来ているという。
大変な競争率の中を選抜されただけあって、礼儀正しく、好感がもてる。
植物園に案内されて一歩ゲートをくぐると
「これですよ。イギリスの公園をみに来たのに、今までのは何だったの。ここへ来てよかった。」と一同感動しました。
この、英国王立園芸協会は、1804年に設立されました。また、植物園は1904年に作られました。
現在会員は225,000人。13,000人が海外でその内2,400人が日本です。
日本支部が、東京の池袋にある。
年間25ポンド払うと、いくつかの特典がある。
2004年に協会設立200年、植物園設立100年を向かえるので、静岡県の花博覧会を応援したい。
ここでは、植物病理学、保存、標本、昆虫学などがある。
スタッフは、250人。その他に、本を売る人、商業的分野もある。
園内を案内してもらう。
雨に濡れた芝の上を歩いていく。
家庭園芸の見本園。モデルガーデンにはストーリーがある。
結婚したてのお金がないガーデン。
子どもが生まれて、ベンチやぶらんこ、バーベキューができるガーデン。
老後の車椅子が使えるガーデン等。
また、モデルガーデンの中には著名な造園かの設計のものもある。
費用がかかるので、スポンサーがついているという。
その後、ロックガーデンや庭園など素晴らしさにため息をつきながら回った。

ウエンブレー競技場(池谷氏からの報告)
ロンドンの中心地から北西約25キロの住宅地に同競技場は立地している。
ウエンブレーまでは地下鉄が走りバスも利用できるなど交通アクセスは整備されている。同スタジアムはウエンブレ・スタディアム社というロンドン証券所一部上場企業が経営している。同社はウエンブレーの地に8万人の収容スタジアムのほかに会議場、3つの見本市会場、アリーナなどのコンプレックスを整備し運営している。又英国のリバプールや香港でも施設を運営している。
ウエンブレーのコンプレクスの年間の利用者数は600万人にのぼる。同社は、96年には約17百万ポンドの利益を計上した。
ウエンブレースタジアムでは、現在サッカー、ラグビーなどの国際試合やサッカーのFAカップなど重要な国際試合がが開催されている。ただしここをホームグランドとするプロサッカーティームはない。
又、ドッグレース、オートバイレースやロック、ポップコンサートも開催され、マドンナ、ミックジャガー、マイケルジャクソンなどが大観衆を前に熱唱した。
アリーナでは、バスケットボール、インドアホッケー、アイスホッケーやホースショウが行われる。
こうしたコンサートのイベントは同社が企画開催するのではなく、同社はあくまでもスタジアムや施設を貸し出すに過ぎない。
これは他のスポーツや見本市では同様。とはいえ集客力のあるイベントをいかに呼び込むかが同社の経営の重要な鍵でありそのための営業力や魅力ある施設、サービスの提供は不可欠であることは言をまたない。
私たちは同スタジアムのガイドツアーに参加し、案内役のナイジェル氏から同スタジアムの説明を懇切丁寧に受けた。
こうしたツアーは6ポンド25ペンス(約1300円)で毎日行われていて、当日も私たちの前には、若者のグループが、あとには社会見学らしき小学生の団体が続き、利用客は多いようであった。
競技場の細部の説明に移る前に簡単にウエンブレーの歴史を振り返ってみる。
同競技場は、1922年に建設が開始された。当時はこの地も一面の緑野だった。
1923年最初のFAカップ決勝戦が開催された。FAカップはリーグ戦とは別で日本でいえば、天皇杯サッカーのようなものです。1948年はロンドンオリンピックのメイン会場となる。1966年ワールドカップサッカーのメインスタジアム。又、最近では96年のサッカーのヨーロッパカップのメイン会場となり熱戦が繰り広げられた。準決勝ドイツ対イングランドの試合は延長の末PK戦でイングランドが惜敗したのは記憶に新しい。
ガイドツアーでは、先ず最初にイベントコントロールルームに案内される。ここでは、スタジアム内、交通コントロール(交通局が担当)及び警備(警察が担当)監視用に3つに別れたカメラルームがある。ここでイベント中のスタジアム内の監視、終了後の交通規制などの指令が出される。
同スタジアムでは満員の8万人の観客が14分で全員外に出れるようになっている。又、観客席を数十のブロックにわけ、そのブロック単位だけに限定して放送できるシステムも2億円かけて導入している。
観客席は1989年まで10万人だったが改装により最大8万人に減少、コンサートは7万2千人収容。
1955年、夜間照明設備を整備。1962年いす関に回収、同時に観客席を覆う屋根も取り付けられた。
スタンドにはロイヤルシートも用意され皇室関係者の利用に供する。
スタンドの最上階には29の特別観覧席(年間契約で利用料約1千2百万)があり、企業の接待用に利用されている。又、病院も併殺され負傷者経の措置を行うことができる。ただ、選手の手当てより興奮した観客の手当てに忙しいとか。
ツアーでは、選手控え室、ロイヤルシートとその背後の小控え室なども見ることができる。
特に楽しいのは、選手の控え室からサッカー選手がグランドに登場する際、慣習の大歓声がスピーカーからスタジアム内に轟き、まるでスタープレーヤーになった気分にさせてくれることである。こうした臨場感あふれる説明で子どもも楽しんでこの施設を理解できる。
スタジアムは建設から既に70年以上が経過し老朽化も目立つ。最近のハイテクを駆使したスタジアムにはテクノロジーで劣るかもしれないが、長い歴史と数々の好試合を繰り広げてきた施設だけが持ち得る品格が感じられる。
尚、2年後には改修が計画されている。各地に新たな施設が次々に整備されたとしても英国のフットボールの殿堂として、また世界のウエンブレーとして君臨し続けることを確信しながら小雨のそぼ降る競技場を私たちは後にした。


雑感
それぞれ最後の日の午後ははロンドン市内を自由に回りました。
買い物ツアーに参加する人、市内散策に行く人。数人で自然歴史博物館に行きました。
自然歴史博物館には、既に神戸の街が再現され地震のゆれが体験できる施設ができていました。揺れ自身はたいしたことがないが、地震がないイギリスにとっては珍しいのか、「きゃーきゃー」いって結構人気がありました。1時間半ほどで、とても見きれるものでありませんでしたが参考になりました。
大英博物館といい、ここといいイギリスのかつての栄光を知ることができました。先人の苦労の上で、豊かに暮らしている彼らに少しうらやましさを感じました。
ホテルの近くにある、ケンジントン公園を出発当日、日曜日の早朝散歩しました。
緑の芝が、みずみずしい。大きな木立もあります。真ん中に人工の池があり、リスや、はとが走り回っている。
手入れの行き届いた、小道をジョギングしている市民。ぐるっと回るのに、2時間はかかる。ここでも、イギリスの底の深い文化や歴史を感じさせてくれる。
5年や10年で公園を建設しようというのとは分けが違う。
噴水の脇に建設年次が書いてあるのを見ると、1865年とある。日本と違うのである。
今回の視察を通じて、多くのことが生かせることを感じたながら、私たちはイギリスを後にした。
再び、この地を訪れることをそれぞれが心に思いつつ。