マニフェスト 西原しげき紹介 8つの約束 一言コラム かわら版 レポート メールマガジン

 

2000年9月 中日記事 
県議会議員 西原茂樹
「この国にはなんでもある。ないのはただ希望である」という言葉を最近聞いた。
増加する青少年の犯罪に関しての話の中でだが、では希望はどこにあるのだろうか。
昭和四十四年、私は榛原高校の銀杏並木をくぐった。
当時の、三年間を振り返ってみると、経済成長真っ盛りの中で、何の疑念もなく受験勉強に励んだ自分がいた。
昭和四十五年三月から始まった大阪万博。修学旅行で行ったが、僅かに記憶に残るのは、月の石と長い人の行列、そして暑かったことだ。
二年の時だった。選挙管理委員長をしていて、だれも立候補しないことがあり、やむなく選挙管理委員会で生徒会を半年やった。しかしそれ以上の詳細は思い出せない。蚊に刺された古い榛の木会館での合宿や、雨の日になると超満員の汗臭い代行バスなど断片的に思い出がよみがえるが、友は、昔の思い出より現在の付き合いの中から多くが構成されるようになった。三十年は遠い。
昭和四十七年二月十九日。明日は受験という日、東京洗足の従兄の四畳半の寒い部屋で、私はテレビにくぎ付けになっていた。テレビでは、鉄の玉で山荘を激しくつぶしている現場中継が流されていた。いわゆる「浅間山荘事件」であるが、いまだにあの光景は脳裏に焼き付いている。
あの事件解決を境にして、日本には平穏な時代がやってきたような気がする。そして、あの日を境にして「抵抗」が表にでない、激烈の時代も終わったような気がする。私が通った大学のキャンパスには、それなりの「時代」と「人」はあったが、すでに凋落であったことを今改めて思う。
光化学スモッグを始め公害問題、よど号事件・沖縄返還闘争・連合赤軍事件など社会を混乱させる事件、それさえも「不安」や「不信」ではなく、対峙する「敵」として闘争心を駆り立て、克服した先の将来に対する「希望」をそれぞれが心の中に抱くことができた。
多感な高校二年の秋、進路で悩んでいた。
「文科系の感性を持ったやつは理科系に行け!」担任の一言で、私の行き先が決まった。進路で悩んでいる私に「これ読んでみろ!」と渡されたのが、伊藤整の「野菊の墓」であった。深夜一気に、涙を止め処もなくこぼしながら読んだのを覚えている。翌朝、本を返しに行った時が冒頭の言葉で、私は迷わず「土木か建築」と決めた。大学の土木工学を出て十三年間は環境の仕事をした。今は県会議員の仕事に専念しているが、この言葉が私の方向を決めたと思っている。
 現在、高校の同窓会役員として、百周年の記念事業成功に向けて鎌田会長はじめ多くの方々と仕事をさせていただいている。子供が二人お世話になっているため、PTAの役員もさせていただいた。榛原高校に恩返しができればと思うと同時に、再び榛原高校で学ばせてもらうという心地よい「青春時代」を楽しませてもらっているような気がする。
〜希望という名の あなたをたずねて ・・・わたしの旅は 終わりのない旅〜
昭和四十五年のヒット曲「希望」は、今聴いても新しい。がんばれ高校生!