マニフェスト 西原しげき紹介 8つの約束 一言コラム かわら版 レポート メールマガジン

 

オイスカ静岡県議会議員連盟
フィリピン・ネグロス視察団  報告書
県議会議員 西原しげき
ネグロス最後の夜を終わろうとしている。
つい一昨日マニラ経由でこのネグロスに入ったというのに、何日も、もっと大げさに言うことを恐れなければ数ヶ月滞在したような重荷さえ感じている。
先ほどの、バゴの研修センターで暖かく送ってくれた渡辺所長さんの顔がホテルの一室でパソコンに向かいながら浮かんでくる。
風がなくても、マホガニーの大木に囲まれたセンターは涼しささえ感じる。白く浮き上がった周囲の壁には、ヤモリが何匹かじっと動かない。やや大き目の芝の中庭に会場ができている。白い蛍光燈の明かりに浮かび上がった手作りの料理。懐かしさがこみ上げてくる手巻き寿司、大根の和え物、イカのスミ煮物、赤出しの味噌汁、何をとっても箸が(フォーク)が伸びる。もちろん昨日も出迎えてくれた豚の丸焼きもある。これは昨日に比べてやわらかくて、しかもぱりぱりしておいしい。メンバー一うるさい曽根さんの依頼で、トン足のから揚げも用意されている。
すべて渡辺さんの心が感じられた。
「カンラオンではお蚕もいる。このバゴでは繭もできてきた。養蚕をフィリピンの産業にしていきたい。もう一つは人材育成です。日本の若い人にもきてもらいたいし、今回送るようにこちらからも若者を送りたい。今年は、100haのマングローブとイロイロでは100haの山植林を行う予定でいる。森作りやデイケアなども進めていく。静岡の皆さんがいっしょにやってきて応援してほしい!大いに励みになります!」
私たちは「いつか再び!」をそれぞれ心に刻みバゴの研修センターを後にした。

予定どおり名古屋空港を出発したJL743便はマニラ空港へ到着した。
暑い!意外と小さな空港ターミナルでまあ順調にイミグレイションを抜けると、そのままドメスティックに向かう。
いっしょに現地に同行してくれるオイスカフィリピンの石橋さんが合流する。彼はルソン北部の山岳地帯で植林プロジェクトに携わっている、福岡出身の青年だ。子供の森の責任者でもある。
雑踏の中に、どこかのバス停の一角かと見間違えるようなネグロスへ向かう空港待合室。
時間の関係で、3時間近くも待つ。
マニラ発16時の5J479便のバコロード行きに乗り込む。
機体にはサイケデリックな南国に似合う彩色が機体全部に施されている。
「きれいだね!」に
「中古でぼろぼろの機体なんで、絵でごまかしている!」なんて説明に少し心配になる。
乗客がいっぱいになると、その辺のバスみたいに気楽な感じで定刻前にもかかわらず、動き出す。気負いもなく出発するのだが、派手に描かれていた機体のサイケデリックな絵に合わせたように、機内では早速スチュワーデスが、イベント行う。なんと歌を歌った乗客にTシャツをプレゼント。あっという間にバコロードの空港に到着する。
これまた簡素な、田舎の駐車場という感じの空港ターミナル(一応こう呼ばせてもらうが)を出ると、ネグロスでお世話に鳴る渡辺さんと小林さんが出迎えに出ていてくれる。
さてこれからネグロスでどんなことが起こるのか期待と不安にかられながら出迎えのマイクロバスで、今日の宿泊場所であるエルフィッシャーホテルに向かう。
夕食はマラニオン州議会議員の招待。近くのレストランで4人の州議会議員やオイスカOBなどを招いて夕食会が始まる。
まずは「カキ」が出てくる。
「おい大丈夫か?」
などとささやかれる中で、出されたものは食するのが礼儀とおおいにぱくつく。
少し「酢」がほしいと思うがこちらの香味も食べているとなんとなくいけてくる。
フィリピン通の某議員が、一切手をつけないのが気にかかったが、結果として翌日誰もトラブルがなかったのだから心配することもなかった。
おおいに盛り上がった夕食会もそれぞれ旅の疲れもあり適当に終了しホテルへ。
翌日は、7時朝食。
出てくる食事が「粗末!」などと苦情もでるが、かの国に行けばそこのルール。
まずは渡辺所長の基地であるバゴの研修センターに向かう。
バコロード市からバゴ市に入るとすぐに、周りを田んぼに囲まれた林が見えてくる。看板にオイスカの案内が見える。
デイケアセンターのかわいい子供たちが出迎えてくれる。それぞれの首にレイをかけて歓迎してくれる。ゆっくり施設見学もしたいところだが、今日は忙しい、早速ここの目玉である「養蚕工場」を見学する。


養蚕機会を見学する

フィリピンには養蚕がなかったが、オイスカはこのネグロスでは可能と判断して昨年の2月から機械を導入して生産を開始してきた。
埼玉県にあった試験場の機械を譲り受けた。養蚕の技術者のOBがボランティアで技術指導に当たった。外務省の援助や草の根NGOなどたくさんの応援でここまでこぎつけた工場に、渡辺さんも働く人たちも誇らしげだ。
近くのイロイロでは絹織物が盛んだが、今まで中国から絹を輸入していた。これからは地元のものがつかえると喜んでいるという。パイナプルの繊維と絹糸とで作る「ピニアセダ」は有名で、これからはネグロスの絹糸がどんどん使われるよう努力していきたいとのこと。
「ここの生産が軌道に乗れば、カンラオンやその他のところでもどんどん、養蚕ができます。現地の農家の現金収入にもなりますし、このオイスカ研修センターも東京から自立できるんです。ぜひ成功させたいです。」
4月には、ここを離れてパプアニューギニアに赴任するという小林君は希望をもって話す。
ここの能力は、繭玉で年間20トン、できる生糸で8トンとなる。
現在は、その10パーセントしか生産していないと言うから今後が期待される。

奥さんやスタッフが用意してくれた飲み物と軽食に手を伸ばしながら、今までの渡辺さんご夫妻のご苦労やこれからの希望に花が咲く。
今日は、まだたくさんの仕事が控えている。
明日夕方再開することを約束してバゴの研修センターを後にする。


中央渡辺さん 右は奥さん 暖かいお手もなし
遠いとは聞いていたが、カンラオンの遠かったこと。
道が悪い。山岳道路。
目的のカンラオンには、昼過ぎに到着。
市庁舎に入ろうとするが、なにやら後ろのほうでもめている。
市長へのお土産を忘れたとのこと。まあしょうがない、あとで届けるしかない。
市庁舎について市長の第一声は。
「女性をお連れにならないんですか?女性がいなければにぎやかな旅になれません!」
5万人の市長は「選挙」という意味のエレクシオンさん。
要は、女性が進出しているフィリピンでは男だけで視察や研修に来ることが不思議らしい。
市長の招待で近くのレストランで昼食会が行われる。
いろいろな人がやってくる。市会議員さん、警察の皆さん(これは後で護衛のためとわかる)
すでにフィリピンについて3度目の食事だが、味の癖がわかってくる。辛くない、おいしいのだが、今ひとつアジアに得意の辛さが足りない。
いよいよ山への植林に出発。
途中マイクロでは入れないので小型トラックに乗りかえる。
乾季というのに珍しく雨が多いため急な山道は泥んこだ。
4輪駆動の車でもわだちにタイヤを取られて悪戦苦闘。
目の前の山肌が近くに迫ってくる。後ろを眺めれば、はるかかなたに、美しくコバルトブルーに輝く海と青い空が見えるのに、往く手を見れば、山肌に今にも振り出しそうな雲がずっしりと垂れ込めている。これこそ「スコール」の前触れではないか。
まさか雨の中をやることはないだろうと思うが、待っていた子供たちが手に手にマホガ二―の苗木をかかえてにこにこして待っていてくれた。
ガボック小学校の6年生の一クラス50人の子供たちが協力してくれる。
畑の横に作られた小道をあがっていく。どこまで連れて行かれるのか不明だが、どんどん進んでいく。バシャ!とすぐ横で、大きな水音がする。びっくりして振り向くと、大きな水牛が水に使って首だけ出して寝そべっている。
「1時間働くと水牛は水に入って体を休めるんですよ!」
息を切らせながら石橋さんが説明してくれる。

植林作業 急な斜面だ
登りきると次に、谷川に向かって急な斜面に沿って泥道を降りる、すでに、靴は泥んこ、ズボンもひざ位まで泥が飛び散っているが、気にならない。
雨が激しくなる。あっという間に、人がやっととおれる泥んこ道は、小川に変わる。
数メートルの谷川をわたりやっと少し開けた斜面に出る。
ここが今日の植林の現場。
子供たちはすでに、おのおの持ってきたスコップで苗木を植えることができる穴を掘り始める。私たちも、それぞれ分散して子供たちと一緒に植林作業をする。
子供たちはすでに、おのおの持ってきたスコップで苗木を植えることができる穴を掘り始める。私たちも、それぞれ分散して子供たちと一緒に植林作業をする。しばらくして作業が終わる。
「歌でも歌おう!」
の声賭けで子供たちが学校の歌を歌う。
「おじさんたちも歌う!」などと宣言したが
「なに歌う?」などとうろたえるが結局、冨士山。
子供たちは続けてフィリピン国家を歌う。胸に手を当てて、きりりとして歌う姿を見ていると、君が代がようやく国歌となった我が日本の現状と比べて、子供たちの姿に感動を覚えた。


フィリピン国歌を歌う子供たち
一休みしてから、帰りは先ほどの道は危ないので別の道を帰る。
「ジュリアナ、マジョリーナ、ライアン」子供たちが次々と名のる。いっしょに、インデアンの歌を歌う。わだちのできたぬかるみにわざと入る。川があれば飛び込んでいく。道ぐろの水槽に近づくと飛んでいって水遊びをする。どの子の瞳もきらきら輝いている。
昔の田舎道を子供たちと、騒ぎながら1時間近く歩いた。雨がずっと降り続いていたが、周りに広がる風景や、子供たちとの楽しいやり取りに時間のたつことも、雨に濡れることも気にならなかった。
全員ぐったりと疲れて今日の宿泊場所である、バゴ研修センターに入る。
もともとは日本人の古川さんが築き上げた研修センターだが、現在は後継者であるカレル・カドハダさんが所長をしている。
全員びしょぬれどろだらけの格好でセンターに入る。
「皆さんが来るので、お湯が出るシャワーを入れましたよ!」
渡辺さんが言ってくれたが、どうしたことかお湯は出ない。結局水シャワーで体を清めて一休みをした。その日の夕方はバゴの研修センターで盛大な歓迎会が行われた。
豚の丸焼き、羊の骨付き肉、羊の内臓の煮物、ガーリックライス、レタスなどのサラダと盛りだくさんの料理がテーブルを埋める。スタイニーボトルのビールがどんどん出される。
宴会は、庭の噴水がある池の脇に作られた東屋に会場を移して、バンブーダンスやディスコダンスと、若いオイスカ現地研修生や近隣から駆けつけてくれた市会議員とその友人たちも参加して、夜遅くまで楽しく繰り広げられた。我が議員団も血気盛んにバンブーダンスに参加したり、ディスコダンスで「昔とった杵柄」を披露した面々も会ったが、昼間のなれない労働が堪えたのか三々五々抜け出していった。
その夜遅く疲れた中であったが、渡辺所長から少しお話が聞けた。
「オイスカでは世界で子供の森を2011ヶ所進めている。皆さんが「また来るぞ〜!」といって帰るので子供たちも「またあの人たちが来るからしっかりがんばろう!」と維持管理をしっかりやるんです。」
たくさんの植林計画を進めている自身がうかがえる。
このカンラオン研修センターは1973年日本から渡った古川さん一家がさまざまな困難の中から、最終的に250ヘクタールに及ぶ農場(主に稲作)を作り上げた。現在では、教え子のカドハダさんが所長として、稲作に加えて、養蚕なども始めている。
米作りでは、州への技術指導など貢献も大きい。
「明日の朝の朝礼を見てください。若い人の規律はしっかりとしていますよ。ラジオ体操など全部日本式です。」
明日の朝は私たちも参加する。
最近感じることで一番大きなことは何でしょう、との問いかけに、しばらく目をつぶって考えてから
「昔と逆転しましたね。そう、この7〜8年ですか。昔は日本人のほうがよく働きました。フィリピンの研修生が日本に行くと、あまり働かないといわれました。でも今は、日本人よりずっとフィリピン人のほうがしっかりしています。」
オイスカで研修した若者たちが現在各方面で活躍しているという。今後の成長が楽しみだが、一方で、渡辺さんが漏らした言葉が気になる。日本の若者が、しっかりしなくなったということだ。
乾季だと聞いてきたのに夜明け前の強烈なスコールに、起こされる。
「しまった。ズボンも靴も干したままだ!」
気づいたときには遅い。
朝のコーヒーをとりながら庭を眺める。昨日の夜の風情とはまた一風違って、花の美しさがまた素敵だ。
6時半から朝の朝礼が始まる。
研修生と農場で働くスタッフ、そして周辺の農家から働きに来ている作業員と総勢100人近くが点呼とラジオ体操をする。
ちょうど消防の規律のように整然と正しく行われる。いったい日本のどこの農場なり工場でこんな風景が行われているであろうか。一瞬タイムスリップしたような雰囲気に落ちるが、しかし違和感はまったくない。ラジオ体操が、日本の私たちより忠実に行われていることにも驚く。「いたたた!」なんて無駄口をたたいて、だらだらとやっている我が県議団がはずかしい。

ため池の公園から棚田を望む
私たちは、農場のトラックの荷台に乗って場内の見学に出かける。乗り心地は満点。うかうかしていようものなら、跳ねた拍子に道に叩き落されるか、美しい景色に見とれていれば、低く垂れ下がった枝にしこたまたたかれる。「おい危ないぞ!」なんていってくれるのは、当たってからがいいところと覚悟しておいたほうが良い。
はるかに続く、見事な棚田。
「等高線に沿って、無駄なく作った結果なんです。」
渡辺所長の言葉はさりげないが、苦労が作った、自然とで織り成す芸術作品のように見える。水が張られた田んぼでは、田植えの準備(代掻き)が進む。収穫を待つ田んぼもある。カモかアヒルか鳥たちが、タニシ取りに忙しく水面を集団で動いている。目を上げて遠くを眺めると、朝げに煙っている。すべてが、幽玄の里、墨絵の世界だ。
「この木だけは皆さんに見ておいてほしいんです」
渡辺所長が案内した木は現地の言葉で「パレテー」と呼ばれている。
メンバー3人で並んで手を広げてつないでみた。それでもまだ直径は大きい。樹齢500年とも1000年とも言われているこの大木は、このセンターの名物になる。
「この木のこと調べてほしいですね。できれば観光資源としたいです」
と渡辺所長が揺れるトラックの上で話した。
そのあと、もみがら燻炭製造所や一日1トンの能力を持つミミズ堆肥製造所などを見学する。すべて自然のサイクルがうまく生かされている。
乾季にも水に困らないように建設されたため池も、周辺環境整備が行われていてまるで公園のようだ。「老朽ため池環境整備事業」などという聞きなれた言葉がそのまま出てきそうだ。違うところは護岸が石積みで、すべての道は土と石でできているし、回りもきれいな牧草地になっている。

ミミズ堆肥製造所

慰霊堂の前で
最後に私たちは慰霊堂に向かう。
研修生の宿泊所の横からきれいに整備された小道を百メートルほど上がると、小さな祠がある。
今回の団のお世話をしてくれている沢井さんが慰霊の詞を朗読する。
昨夕小楠副団長に「これそのまま読んでいいでしょうか」と相談しているのを横で耳にしてしまっていたので、ある程度予想はしていたのだが、聞いていて目頭が熱くなった。
多少時代がかっている(一部の人が聞けばとんでもないと叫ぶかもしれないが)が、ネグロスで亡くなった多くの御霊に対する慰霊の言葉としては最大限の表現であり、この地に移り誠心誠意地元フィリピンのために努力してきた古川さんや現在の渡辺所長さんに対しても最大の敬意をあらわしている。私たちの決意については、少しフライング気味のところもないではないが、私としては100点満点!
注)最後の部分を引用「皆様の志を大切にし、祖国日本が未来永劫に栄えるよう、日本においても身を呈して活動しますので、天界よりお力を我らにお貸しくださいますようお願い申し上げ、謹んで慰霊の詞といたします」
8時過ぎにセンターに帰って、朝食。
市会議員のボボマパさんが昨晩に引き続き見送りに来てくれる。今日はかわいい奥さんはいない。彼は、ここの研修センター農場の地主であるマパさん甥に当たるが、さとうきびが5haに米が6haというから大きいほうではない。
なごりは尽きないが、センターの研修生等との別れをしてランカオン研修センターを後にする。
来たときと同じコースで戻る。
カンラオン・マスログ小学校へは予定通り9時過ぎに到着する。
校長先生始め全校生徒が入り口に列を作って出迎えてくれる。昨年の夏、奥之山団長をはじめとする派遣団が着て植林した場所を見る。しっかりとついている。
校舎の裏側には田んぼの向こうに小高い山がある。そこには大きく育ったマホガニーの林が望める。何年もかけて植林を続けてきた、オイスカの「子供の森」の成果だという。
記念の電子オルガンが贈られる。どこに行っても我が団のメンバーは手際良い。事務局任せにしないで、みずから動く「行動する」研修団だ。別に事務局の動きがどうのこうのといっているわけではないが、実に頼もしい。箱から出して、電池を入れて、鳴るかどうか確かめて、できれば「メロディーも」なんて確かめて、写真のとり方まで指導してくれる。これでは事務局としては下手に手は出せません。
おいしいコーヒーを頂いて、教室見学をして学校を後にする。
ここで、護衛をしてくれた「国家警察」諸君が別れる。カンラオン市に到着以来ずっと護衛してくれた皆さんご苦労様でした。
降り出した雨の中を私たちを乗せたワゴン車は揺れながら進む。
昨日からの疲れのせいか、揺れがひどいにもかかわらずそれぞれ夢見ごこち。
トイレ休憩もなく2時間近く。12時を過ぎて、バゴの海岸沿いにあるリゾートレストランに到着。そこで待っていたのは派手な赤いスーツの市長さん。議員さんもお二人見えているが、これまた女性。観光課長さんなどすべて女性。トロピカルドリンクにのどの渇きを癒しながら、バイキングでプレートに料理を取っていく。
フルーツが3種類。
黄色のマンゴスチンと橙色のパパイヤ、うりのようなアップルガバが並んでいる。
ガバはあら塩をつけて食べるのだが、「ガバジュース」を期待したむきには、かなり厳しい味だ。思わず出したくなる。「これ糖尿に効くんです!」と言われて急にぱくついていた人がいましたが、さて効用は。マンゴとパパイアは文句なし。
「これは食える料理だよ」と嬉しそうに大盛りで食べていたのは曽根さん。良かったですね。
女性の進出が多い。12万の市で18歳以上の有権者が7万人。市会議員が12人(内2人は区の代表と青年代表で選挙なし)というから、日本は多い。うち女性は4人とも選挙で当選してきている。
近くにあるオイスカ支援の(オイスカ建設で運営は市)デイケアセンター(4歳から6歳の保育園)による。
20人ほどの園児が、「大きな栗の木下で〜」や「咲いた咲いた〜」をうたって迎えてくる。
バゴ市内には20箇所ほど建設されているというこのデイケアセンターは、オイスカの支援による。このコスモスデイケアセンターは茨城の県民の70万円の支援で7年前に建設された。日本と比較できないほど狭いのだが、このような施設はもっと必要なのだろう。ジュビー先生が、お茶を用意していたが、昼食後のため手をつけづに足早に岐路につく。
しかしここで時間があるので市庁舎の訪問をすることにする。時間があるのだったら、もう少しデイケアセンターにいてあげればよかったにと思うのだが、「予定は未定!」早め早めの行動のほうがいいのでしょう。
バゴ市庁舎の執務室は冷房が入っている。
「おお!ここは冷房が入っているぞ!」
と石橋さんが驚いているのだからフィリピンの役者は平均的に冷房が入っていないのだろうと、そんなことどうでもいいやとそれ以上詮索しない。
ただしインターネットが入っている。これは興味深いと食指が動く。
「これで静岡県議会のホームページ出してもいいですか?」
女性秘書はどうぞと席を譲ってくれるが、エクスプローラーを起動しても接続されない。プロバイダーに接続するダイヤル接続ができていない。すると別の男性スタッフの方が飛んできてくれる。なにやら一生懸命接続を試みるがうまくいかない。
「昼は回線が込んでいるので難しいです」
しばらくやっているとようやく繋がる。自民党の議員名鑑のアドレスを呼び出す。
繋がる。確かに速度が遅いが、確実に読み込んでいる。
しかし、しかしである。写真とタイトルは一部出るが、後は意味不明な、アルファベットや数字などの羅列のみ。そこで気が付く。
「そうだ、ここはフィリピンだ。日本語ソフトがなければJPG(写真など)以外はでてこない。」
日ごろ、情報を世界に向けて発信などといっているが、英語で書かれていないとだめだ。ということが実感された。
「これからは英語で入れとけよ!」
と指摘してくれた議員もいたが
「私たちは、インターネットでなくてジャパンネットでたくさん!」との意見も出て、さてどうしましょうか。
さて、今回のイベント第2弾。
いよいよマングローブ植林。
その前に以前植林をしたところを視察する。荒涼とした海岸近くの原野を走らせるとマングローブの林が見えてくる。
最初がどうなっていたのかわからないが
「何もなくて侵食が激しかったこの海岸で、マングローブの植林を始めてこれだけにしてきました。」
海面から何本もの根が一本の幹に向かって伸びている。典型的なマングローブの林ができている。かにや、えびや、小魚たちが喜んでいるであろうことが想像がつく。
「この一本の苗木が自然に海に落ちて刺さって増えていくんです。今から行って植林をしてもらうところには、この苗木を2000本運んで用意してあります。干潮も今に来ますから行きましょう」
私たちは、程なく目的地であるタンコブ村に到着した。
バゴロード空港の端にあるので、時々飛行機が離発着する音が気になる。
海岸に通じる狭い道を歩いていくと、子供たちが寄ってくる。どんどんその数が増えてくる。海岸に出ると、もっと増える。湧いてくるという表現は適切かもしれない。
何回もこの地に来ている人にはあたりまえの光景かもしれないが、初めての人にはショックかもしれない。私のようにもっと汚いかもしれないところも含めてみてきたものには、正確に表現すると「ウンコ、おしっこ、死体、腐敗、ごみ、汚泥・・・」このきたいない泥泥こそが、生命循環そして誕生の「際」みたいなものなのだが、一番懐かしくて大切にしておきたい光景である。しかし、再生できないビニールやプラスチックの見るに耐えない散乱には憤りを越して空しさを覚える。
それさえなければ、人間がいくら汚物を出そうと、この海を助けることができそうに感じる。
オイスカのスタッフが、植えるピッチを決める道綱を張って、等間隔で大勢の子供たちと一緒になって苗を植えていく。足元は泥だ。私たちが鉄の棒を差し込んで穴をあけて、そこに子供たちが少し根がついた苗を押し込んで植えていく。大きな声で、「ここ開けたぞ!」「苗まだあるか!」「そっちは危ないぞ!」泥を顔に飛ばしながら、進んでいく。瞬く間に数百本が植えられる。
ヘドロの下には、カキなどの貝がついた岩がある。私などでは、一たまりもない。すぐに切って血が出てしまう。ためしに子供たちの足を見せてもらった。泥をとってやって触りながらよく見ると、どの足もきれいで、切れて血が出ている足などない。さわり心地は、猫や犬の足の裏。私たちの履いているゴム製「水地下足袋」のような強靭な足を持っていることになる。
昨年から始まったここタンゴブ村のマングローブ植林が成功して、先ほど見てきた海岸のようにすばらしいマングローブの海岸線が復元できるよう祈りつつ、大勢の子供たちの見送りを受けて、私たちはバコロードのホテルに向かった。
夜開かれた渡辺所長さんの家での夕食パーティーで、昼マングローブを植えたタンゴブ村の村長さんがお礼に訪れて次のように挨拶した。
「皆さんの植林のおかげで、まず最初に漁民が恩恵を受ける。かにやえびや魚が増えていく。現金収入が得られる。その次に、海岸が美化されて美しい自然が再生される。ぜひ何年かしてまた戻ってきてほしい。いっしょに植林をしてほしい。それが幸せです」
できたら私たちもふたたび、植林に来たい。それはフィリピンの人たちのためということもあるが、それ以上に自分たち自身の生き方を反省し修正するために必要なのではないかと思う。
9日、今日も(私にとっては最終日)あわただしく始まる。
今日でネグロスを離れる。何日も滞在したような気がするが、わづか3泊4日の短い滞在だ。
最初に、訪れたのはネグロスの戦没者慰霊塔。20年程前に、古川さんが呼びかけて、市が土地を提供してくれて建設された。小雨が降る中、立派な慰霊塔の前で一人の女性が待っていてくれた。
諸永初子さん。
静かにたたずむ彼女の横で渡辺さんが話してくれる。
「ネグロスでは、16000人が戦死しました。現在そのうち14000人の名前がわかっています。維持はオイスカが行っていますが、それを初子さんがやってくれているんです。彼女のお父さんは、佐賀県出身ですが、戦争が終わり、彼女とお母さんはフィリピンに残されました。でも彼女は日本人であることを誇りに、他の人たちが名前を変える中でそのまま通しました。反日感情が大きく、小さいときはいじめられたそうです。」
3年前にお父さんをなくした時、日本に帰ったのが最後だと言う彼女は現在70歳を超える。
「つい先週の土曜日に、娘さんをなくされました。よく今日出てきてくれました。朝7時前からここに来て、花や線香など一生懸命準備していてくれました。」
渡辺さんの説明に改めて彼女に感謝して慰霊塔を後にした。
そのあと、博物館や市場を見学して西ネグロス州知事のラファエロさんを訪問した。
ネグロスについた日の晩餐会でいっしょだったオイスカOBの農業普及部長ルッシェル女史が案内をしてくれる。
ラファエロ州知事は若く見える、精悍な政治家だ。
知事からは、水口団長に
「COME AGEIN !」との呼びかけに
「道を良くして下さい!」と我が団から声が飛ぶ。
「一番の課題は、農業です。食糧確保や、農民に対するいろいろな政策を実施しています」
静かに語る州知事はさらに
「観光部長がネグロスのスライドをお見せしますので見ていってください!」
観光振興にも期待を寄せる。
コーラとサンドイッチなどをいただきながらスライドで説明を受けた。
雨にたたられたネグロス。
いよいよ離陸という機中から眺める外の景色も小雨の中に煙っている。
セブパシフィック5J0476便はエプロンを離れてゆっくりと 滑走路の端に進んでいく。
海に突き出た滑走路の端に差し掛かると、窓の外には昨日マングローブを植えた海岸が眼に入る。
「また来るからな!大きく育って地元の役に立ってくれよ!」と念じつつネグロスを後にした。