マニフェスト 西原しげき紹介 8つの約束 一言コラム かわら版 レポート メールマガジン

 

 「文部科学省寺脇研大臣官房審議官とはなそう!」
4月26日に行われました講演を簡易要約してみました。参考にお使いください。
静岡県高等学校PTA連絡協議会会長 西原茂樹

静岡県高等学校PTA連絡協議会と静岡県PTA連絡協議会の共催によって寺脇研大臣官房審議官との意見交換会が、さる4月26日クーポール会館で行われました。
最初に、須藤県P会長から「批判からは新しいものは生まれない。課題に積極的に取り組んで行く」と今日の意見交換会に至った経緯が報告され、続いて寺脇さんから30分ほどの講演が行われました。

おなじみの、かすれ声で始まりました。この声の調子で2時間が持つのかなと少し心配されましたが、だんだんとのどの調子は上がっていきました。

(要旨)

今回の教育改革は、学校と子供たちがだけが変わるだけの改革ではない。大人と子供が変わってもらわなければいけない。
学校、家庭、地域、子供4つが全部変わってもらわなくてはいけない改革であるという認識に立ってほしい。

どうしても、教育改革となると「一般的には学校と子供だけが変わるような感じで、子供の学力が下がるんじゃないのか、今の先生は信頼できるのかと言う議論になる」
学校や子供の悪口はいっぱい出るが、家庭や地域を批判することは全部自分に跳ね返ってくることだから、言わないが、やらずにずるずるとここまで来てしまった。
確かに、子供たちの荒廃しているすさんだ状況や、問題はあるが、最初からすさんだ子供はいないはずなのに、どうしてこうなってしまうのか。先生だけのせいでしょうか。親や地域にも問題があるでしょう。

親や地域を何とかするのは、変えるのはむつかしい。
今回の教育改革では、子供を変えると言うだけではなくて、大人を変えると言う仕掛けをしようとしている。

「4月は教育界の新世紀が始まる。すがすがしい気持です」と一段と語気を強めて話は続く。

教育改革の柱は二つ。
@ 学校週5日制
A 新しいカリキュラムの元に、マスコミではゆとり教育と言われている新しいカリキュラム。

この二つは分けて考える。
今一緒に語られている。

「学校5日制で子供の学力が下がる」これは違う。
5日制とカリキュラムが変わることは別問題です。
カリキュラムが変わることによって学力が下がるかもしれないといった不安、これはわかる。
5日制は、勉強の中身を変えるんじゃなくて、子供の生活スタイルを変えていく。イコール大人の生活スタイルも変えていくという生活スタイル革命。
はっきり言えば、学校5日制は大人に与えられた試練であって、いわゆる「ゆとり教育」は学校と子供たちに与えられた試練である。
全然別なものである。

尾身大臣との話の中でもこの議論になった。
ゆとり教育で学力の低下が心配と言う議論には、文部科学省でも真摯に耳を傾ける。しかし、学校5日制は、どこの国でも、週末は子供と過ごすことがあたりまえになっている。週末は家庭や地域社会が責任を持って引き受けていく。

世界で、学校6日をやっているのは、イタリアと韓国。
イタリアは、昼2時間もかけて家に帰って食事をする、全体がゆったりした社会。
一方の韓国は、儒教の関係で、家族の絆がしっかりしている。目上の人は敬うし、日本ほど家庭が荒廃していない。
実は日本でも、明治までは家庭と地域で7日間やってきた。
明治以降6日間学校が見てきたが、それは、韓国もそうだが、資源がなくて貧しい国なので、勤勉に働かなくてはいけなかった。

韓国に比べれば、はるかに心の荒廃が深刻に進んでいる。
週5日制になって、土曜日が休みなると、今まで子供の面倒を見なくて良かったのが見なくてはいけない。
確かに「学校で見てくれればいいのに、家庭で土曜日を見るなんて面倒で大変だ」というご意見は良くわかります。
しかし、長い目で見れば「しょうがない子供の面倒を見ようか!」
そうすれば必ず「ああ!良かったな」といってもらえる。と思っている。

家庭と地域を変えると言う命題を10年かけてやってきた。
学校5日制は月一回から月二回と徐々に増やしていった。最初の時のもこのような議論はあった。ここ10年学校5日制を進めていく中で、PTAの父親参加が30パーセントになってきた。親父の会は方々にできた。鹿児島市はすべてできた。

経済は落ち込んできたが、ボランティアは、少しずつ増えてきた。PTAの3割の人はみんなのことを考えるようになってきた。盛り上がっているとこで、完全5日制は進んできた。

一方、学校以外の子供の居場所作りをやってきた。基盤整備やってきた。
子供の行くところ、もちろん学校開放もやってきたが、全国の図書館の8割、2800館が子供に開放されている。
公民館も、8600の公民館が子供に開放されている。大人の居場所が、子供に開放されてきた。
図書館や公民館が開かれてきた。
社会基盤もやってきたが、地域社会で子供が活動できるよう子供プランをも3年間進めてきた。14年から、新子供プランも始める。

このような施策は自転車の後ろを押してやるようなものである。
でもいつまでも行政が子供の後ろを押してやっていたのでは自転車に乗れない。
いつかは、手を離して、子供たちが自分で、おとなの手を借りなくても、自分たちで、考えて休みの過ごし方ぐらいきちんとできるよ。自分で必要な勉強はするし、スポーツはする。

ところが今までは、ぜんぜん自由にさせてきていないから、最初は大人が導いてやっていく必要はあるだろう。学校5日制はそういうことである。

「土曜日曜働いている大人はどうするの。」という質問がるかも知れない。
働いていたって結構です。思い出してください。わたしたちがこどものころ、やすみの日だって、おとなたちにくっついて貰わなくたって自分で遊んだし、友達といろんなことをやった。親がいなかったら近所のおばちゃんが面倒見てくれた。
あれと同じことが今どうしてできないんですか。

不景気と言ったって昔よりずっと豊かです。昭和30年ころは、大人二人に子供一人でした。今は、大人6~7人に子供一人ですよ。少子高齢化している。
特に高齢の人は時間的余裕がある。
そのおじいちゃんやおばあちゃんと子供たちが分断されてきたのはなぜか。
学校と親に責任がある。

今子供たちは「細切れの時間しか与えられていないからテレビゲームしかできない」
余裕の時間があるだろうといったって「1時間づつ5回分けられるのと、5時間自由にやっていいよ」というのではぜんぜん違う。
5時間の塊でもらえれば違う。いろいろなことができる。
学校5日制と言うのは、「金曜の夜から月曜の朝までの大きな塊を家庭や子供たちに与えていこうと言うもの」

学力が下がるとか何とかと言うのはほとんど関係ない。
だって今回の土曜日休みで増えてのは、1年で15日。土曜日が15回です。土曜日は、0.5日だから実質は、7日ちょっとです。
もし本当に心配なら、夏休みを7日止めて授業をすればいい。
先生方も、夏休み中でも月曜から金曜まできちんとした勤務だからそれをやればいいのに、まだ本末転倒の議論をしている。

特に東京の教育界はごまかしている。
東京都立高校が土曜日補習をやるとこれ見よがしに言っている。高校の先生は、試験を作るといって1週間休んで、採点するといってまた1週間休んでいる。7月になったらほとんど授業をしていない。
他にもいっぱい休んでいる。これをやめて授業をすれば、わざわざ、土曜の補習をやらなくてもいい。

こうして、土曜日をやらなければと言う議論に摩り替えていけば、学力が低下するかもしれないといって土曜日に補習をやるようになれば、いつまで経っても、家庭や地域は体制が変わっていかない。
そんなに無責任なら、無責任な親に預けるなら、いっそのこと週7日学校が預かっても良い。今度の、土曜日曜の休みで、親や地域がいいかげんなことをやるなら、週7日制で学校で!なってことなどないと思っている。

子供たちまでが、「学校5日制で学力が心配」という談話が出ていた。
子供でも大人でも休みがいあやだなどという人はいない。休みの日は、体を休めると同時に、自分のやりたいことができる日である。
そこで、子供が「自分にはやることがなくて困る」とか「学力低下が心配」するなんて健全な社会でしょうか。
こどものほうから「僕心配ですから塾に行かせてもらいます」おかしい。
生まれたときはそうでないのに、いつも間にかすりこまれてしまっている。

もう一つの、学校と子供の課題。
学校5日制は、生活のリズム。5日学校に行って、2日家庭で過ごす。これを日本人のリズムにしていく。5日行く学校で何をやるのか、これは先生と子供たちにがんばってもらう。そこで心配になるのが「学力がつくのか」

学力を4つに分けて考えてみる。
@ 基礎基本
A 応用学力
B もう一つ厄介なのも、受験学力がある。試験がある殻やらなけr場ならない。
C 新しい学力21世紀に必要な学力。

新しい学力はつくのが当たり前。今までやっていないから。
基礎学力もつくだろう。落ちこぼれは少なくなるだろう。国民の基礎学力はつくだろう。学力低下を批判する人も、ここまでは。

一番争いになるのは、応用学力のところ。
方法論の違い。
基礎学力を皆がきちんと身につけて、新しい学力の考え方に建って興味関心を引き出すというやり方をしていけば、応用学力は皆勉強するようになって上がっていくだろう。というのが文部科学省の考え方。

そんなことではだめだが。応用のやり方を叩き込む。応用のほうにぐいぐい引っ張っていけば、学力がつくんだよ
これは方法論だ。
マントを脱がすのに、北風か太陽か。今の時点では太陽だとい思う。
先進職がぶち当たっている壁だが、国が貧しかったときは、言われなくても皆勉強していた。
しかし少子高齢化の現在、勉強しなくても食っていけるし、大学へもいけるとき、先進国は皆そうなってきたが、勉強しないとひどいことになるから勉強しようというモチベーションでは勉強をやらなくなってきた。

勉強って面白いな。自分は、これがとくいだからもっとやっておいたほうが良いな。という方向に行くべきではないか。
先進諸国では同じ問題意識をもっている。
やり方は国によって違うかもしれないが、問題意識は同じ。

アメリカやイギリスが「叩き込むようなことやっているよ」ということは今まであちらでは、叩き込むことはたりなかったから、叩き込まなくてもやっていたから良かったが、勉強しなくなったのでたたきこむことを増やした。
日本は、教えるのは昔からやってきたから、子供が自分で発見する方法を身に付けていけばできるだろう。

しかしこれは、結論は今すぐにはつかない。子供と先生がたに努力してもらうしかない。
4番目の受験学力。
これははっきり下がります。
受験のためだけに必要な学力はもう必要ない。
受験の後の長い人生を生きていくために力が必要。

そうは言ってもというところが、ここのところがせめぎあいになっている。
しかし、公立学校で、受験のための学力が必要だというところはない。
香川県の配布資料
「香川県の高校入試は心配ありません。特別な受験テクニックを必要とするような試験は出しません。香川県の高校入試は学校が教えてくれることをきちんとやって、あとは自分の考える力をつけていけば、つまり、基礎学力と新しい学力を持っていけば、当然応用っていうやつは出てくるだろうが、いわゆる受験学力は必要ありません」と断言している。

大学入試がネックだった。大学は自治権があって、大学といえども、東京大学の変更を大臣がいえなかった。
苦肉に策で、センター試験をやって大学受験を変えようとしたが、それでも大学はコンピュータで受験をやってミスを犯している。大学の先生が、入試に労力をかけることをやりたくない。大学の先生は、自分の研究、授業で、入試なんて手をかけたくない。

だけど時代が変わった。
何で不況の時に改革するのか。もっと景気が良い時にやればいいではないかと。
好景気のときなんかにできっこない。
お金はあるから、
土日預かってくれるところを探したり、ベビーシッターを探せば良いとなってしまう。
そして自分達親はどこか(パチンコでも)遊びに行こうになってしまう。
今、自分も含めて周りを見渡すと、お金やモノばかりではないぞという時代になってきた。だからこそできる気になってきた。バブルのころの親には預けられない。

大学が変わるようになったから私たちも改革ができるようになった。
入試が変わるという確証がもてた。
大学の自治は変わらないけれども、大学が自発的に変わらなければできない状況に追い込まれている。
国立大学は、独立行政法人となって、3年後には全国で国立大学がなくなる。
大学の先生は公務員ではなくなる。小中高校の先生のほうがはるかに恵まれている事になる。大学は国立ではない、先生も公務員ではない。従って努力しないとどうなるかわからない。そのような状態でも子どもが「入れてください!入れてください!」という状況ならいいんだけれども、今私立の入試は完全に変わった。

理由は、社会の要望が変わった。企業の採用が変わった。有名大学を出ても、東京大学を出てもそれだけで採用しない。
何が必要なのかというと、本当に力があるかということ。それが重要となっている。
企業が求める力があるかということ。
その企業の要請にこたえられるかどうか。

国立は今まで授業料が安いから有利といわれてきたが、独立行政法人になればそうは行かない。今だって「国立のいいかげんな授業だけでは心配と、ダブルスクールにっている人がわんさといる」それではむしろ私立より高くなっている。
私立以前はダブルスクールへ行っていた学生もいたが、いまでは私学が「うちでは、専門学校へ行く分の授業も含めてやるよ!」

国立もそんな努力をしなければならない。

今度のカリキュラムで英語を高めようとしている。
英語ができるほうから、1/3ぐらいまでの子どもは、大学で英語で授業を受けられるようにしようと考えている。そうすると、今日本には外国の大学が出てこないけれども、英語で授業がわかる生徒ができてくると、外国から大学が出てくる。
今までは東京大学か京都大学といっていたけれども、オックスフォード大学や他のところも出てくる。

いま一番入試改革や教育改革に熱心なのは、東京大学や京都大学です。危ないぞと危機感をもってきている。

ではなにが重要なのか。
いままでの受験学力を切り詰めて、変わりに「新しい学力が必要」
新しい学力というのは、企業が求めているものとまったく一致している。
企業戦士の育成をしているのかというが、企業という事は、一般社会で求められる人材という事です。

それは生きる力を持つこと。
今まであいまいに言ってきたがはっきり言わせてもらう。
@ 自ら考える力を持つこと。
A 考えたことを人に伝える表現力、コミュニケーション能力をもつ事。
B これが一番大事なことだが、みんなが表現力を持つということは皆ががいろいろな事を言うわけだが、みんな同じだから阿吽の呼吸でやろうということではなくて、横並びではなくて、違いの中で調整して、違いを前提として、物事を調整していく能力。
それと、
C コンピューター情報処理能力。
D 国際理解能力

どうでしょうか、この3+2の能力を持っていたらどの企業でも採用する。

つまり新しい学力とは@からDまでの「生きる力」だ。
いま、いわゆる有名大学といわれる学生になればなるほど、「5つの力が無いために自分がいかに苦労をしている」かと嘆いている。
「自分達は優等生といわれてこんな有名な大学に入ったが、英語がしゃべれない。コンピューターが使えない。自分で考える事の教育を受けてきていない。コミニュケーション能力が低い。人と違った時に調整ができなくてうやむやになってしまう。」
これらに尽きるのではないか。

今日は伊能忠敬の話も少し触れる。
別に宣伝にしに来たわけではないが、さきほどらい話してきたことをどんな形でも良いから国民の皆さんに知ってもらいたいから。
別に伊能忠敬でなくても、金八先生でも良い。金八先生では、これから学校が変わるよということを示してもらっていた。
国民の皆さんに分かってもらうためにはどんな手段も使わなきゃあと思っている。

伊能忠敬というは、まず最初のテーマである「大人と子どもの関係」、子どもとどう接していくのか。学校が無い時代の、親と子の関係はこうしてやっていた。

次に、学力につながってくるテーマで、伊能忠敬はなぜ勉強したんだろう。50才にもなって。勉強したからといって入学試験に合格するわけでもない。
勉強したからといってお金が儲かるわけでもない。
むしろ勉強したために私財をなげうってしまった。お金が儲かるというより、使い果たしてしまった。
それは、自分が、地球の子午線一度が何メートルか知りたかった。

そういうことを子ども達に見てもらって
「そうか、勉強ってこんなふうなことのためにあるんだ」ということをわかってもらえれば、と言う思い。
そこで、PTAの皆さんにも推薦いただいて、文部省でも推奨している。

以上が、前段の講演の部分です。
これに基づいて約1時間、質疑応答が行われました。

後段では、教師の免許更新について、コニュニティースクールについて、夏休みの使い方について、文部科学省や教育委員会の説明不足について、フリースクールについてなど活発な質問や意見の発表がありました。

特に「情報公開と説明責任」が先生にも強く求められること、学校に地域の人をもって入れること、学校の仕事に地域作りがあることなども指摘されました。
また、保護者側が要望や希望をはっきり出していくことも重要だと指摘がありました。